ブラジル日本文化福祉協会は、ブラジル社会で日本文化を促進し、日本ではブラジル文化を紹介することを使命とし、これらの目標を達成するための活動を主導し、支援する団体です。
日本からの移民が始まってから25年後の1932年に、ブラジルの日系人人口は約14万人に成長し、日本語学校、協同組合、スポーツ団体などが増加し、教育、健康、スポーツなどを通じて、ブラジル全土の日本人コミュニティの結束感を高める動きが出てきました。
しかし、第二次世界大戦の勃発に伴い、ブラジル政府は対軸国の言語使用を禁止し、対敵国の資産を凍結するなどの干渉を始め、これらの団体は解散せざるを得ませんでした。
戦争が終結すると、新たな日系団体が各地に設立されましたが、日本の敗戦により、それまで結束していた日本人コミュニティは、日本の勝利を信じる者(勝ち組)と、敗戦を理解する者(負け組み)との対立に見舞われ、混乱と分裂が生じました。
ブラジル日系社会が「日系コロニア」としてまとまり始めたのは、1954年1月25日から1年間、サンパウロ市制創立400周年祭に関連して日本館の建設を支援するための協力委員会が誕生し、日系コミュニティが協力して大事業を達成したときです。
この祭典の成功を受けて、1958年にはブラジル日本移民50周年を記念する「サンパウロ日本協会創立準備委員会」が設立され、1955年12月17日には「サンパウロ日本文化協会」として正式に登録されました。
これに続いて、1956年に「日伯文化普及会」も設立され、日伯交流の役割を果たしました。その後、様々な文化イベントや行事が開催され、ブラジルの日本コミュニティは大きな成長を遂げました。
また、ブラジル日本移民50周年記念祭は三笠宮夫妻の訪問と共に、豪華な山車行進で盛り上がり、ブラジルと日本の友好を固めました。そして、ブラジル日本文化協会のビル(文協ビル)が1964年に完成し、様々な文化イベントが行われ、ブラジルの日本文化の普及に貢献しました。
1951年にはサンフランシスコ平和条約が調印され、日本とブラジルの国交が回復し、日本からの移民が再開されました。ブラジル日本商工会議所も再開し、日伯交流がさらに強化されました。
石川 レナト氏は、1938年にパラグアス市で生まれました。1984年から2002年まで、NECラテン・アメリカ社で取締役、副社長、そして社長として、ビジネス分野で卓越した才能を発揮し、多くの課題を解決し、同社の発展に多大な貢献をしました。彼はこの企業の最初の日系人トップとしても知られており、1992年にはリオデジャネイロで携帯電話の導入を実現させた先駆者の一人でした。
2001年には、Gazeta Mercantil誌によってビジネスリーダーとして認められ、テレコミュニケーション分野のビジネスリーダーとして選出されました。
現在、彼はCNL Empreendimentos Imobiliáriosを率いており、品質、安全性、時間厳守で認識されているプロジェクトで構成されるポートフォリオを持つ建設業者および開発業者です。
また、石川氏はサンジョアン・ダ・ボア・ヴィスタ/サンパウロ市にあるアリアンサ農場を所有し、特別なコーヒーを150万本以上栽培し、その生産物は日本、ドイツ、ブルガリア、イギリスなどに輸出されています。同時に、肉用牛も飼育しています。
2012年から2021年まで、サンタクルス日伯慈善協会の理事長として、ブラジルで初めてトヨタ方式を導入するなど、医療提供の効率化やサービスの向上を図るための大胆な改革を進めました。また、ビジネスマンとしての手腕を発揮し、同協会の経営改善に成功。サンタクルス日本病院においては、案内に日本語表記を追記するなど、医療従事者の日本語対応能力の強化に努め、在留邦人・日系人の福祉の向上に貢献しました。彼は日本の慶應、大阪、筑波大学病院といくつかの協定を締結しました。
2019年5月、彼はブラジル日本文化福祉協会の会長に選出され、ブラジル国内における日本文化・価値観の維持及び普及に多大な貢献をしました。特に、日本の団体と若者の主導権を強調し、ブラジルと外国の団体との関係を強化しました。石川氏はジャパンハウス – サンパウロの監査委員会のメンバーでもあります。
2020年2月には、サンパウロ市議会からサンパウロ市市民の称号を授与され、2022年(令和4年)には日本政府から金のロゼットを携えた旭日章を授章しました。
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